はい。どうも。
人生が終わりそうです。
とまぁ、現在進行形でヤバい現在は置いといて、自分の過去を振り返って見ようと思います。
どうしてこんなに気持ち悪い人間になったのか、どこで道を間違えたのか、などなど。一旦ふりかえって明日に繋げていこうと思います。
小学生、良くも悪くも、上の中〜中の上くらいの両スペックと言った感じ。カースト的にはワンピで言うところの海軍中将的な。自由にやるにはこれ以上の地位は要らん的な。はい。
学校生活での不足不満はなかったですね。不満を絞り出すとすれば彼女が若干欲しいと思ってた節はあったかなと。ただ、その理由は周りの人達にそういう関係の人らが多かったのでおれも、みたいな、周りと同じようになりたい意識が強かったり、自分自身まだ早いだろ(今の俺は遅すぎるだろ)といった感じだったので。といっても、そこまで好き!みたいな人もいなかったから、うーん。
運動A、学力Aみたいな。夏休みの宿題は7月に終わらせるタイプ。まぁ小学校でそれどうやんみたいに思うけど。まぁちゃんとしてましたね。教師からも信頼はされてましたね。周りよりはちゃんとしてました。
ただ、家庭はそこまでだったように思える。
物心着いた頃から父親は恐怖の対象。怒らせないように常に意識してました。母親は過保護。当時DSの使用時間は一日10分(元々5分、姉と共に説得してなんとか10分に)。テストは100点が当たり前。まぁ小学生のテストだから、それはそうだけど、そこまで力入れんでもなぁと当時は思ってた。あと、家から出る時は必ず報告して、家の周り(大体20mくらい?)より遠くは必ず同伴が必要だった。
とまぁ家の中でゲームもできずに暮らす小学生時代でしたが、唯一漫画だけは無制限だったので、姉と共に買った漫画を共有し、無限に読みふけってた。家を出るタイミングで自宅の漫画代を計算したら全部で40万円分くらいあった。どえらい。
あと、家の壁で壁蹴りをずっとしてた。平じゃなくてゴツゴツの壁だったから色んな方向に飛んでいって、中々鋭敏になれてた気がする。
小学校でのネガティブイベント(以降ネガイベと略)は主に2つ。
1つ目は友達の家に遊びに行った時。友達とその父と急遽大阪に行くことになり、大阪で遊ぶ(DQMすれ違い通信)。帰宅後親に告げると、父親発狂、母親もそれはあんたが悪いわ的な反応。
食事中に大阪まで連れてってもらったといったら急に。大阪に行く前に親に連絡しなかったから行けなかったんだと。言われてみれば悪いかもしれないが、10歳そこらの子に何を求めているのだろうか。友達の親がそんなに信用できないのだろうか。なにより、母までもが助けてくれなかった頃に、当時の少年僕は深く心に傷を負った。助けてくれないんだなと。
2つ目は、いじめについて。
当時友達の「きっしー」と仲が良く、朝はいつも一緒の電車に乗って登校していた。バラエティ番組などをよく見ていた自分は、ツッコミ感覚で「きっしー」をよく叩いていた。いや、別にきっしーだけでなく、ほかの友達にだってそのタイミングであればツッコミのような感じで手が出ていた。そんなある日、自分とあと一人は教師に呼ばれ、「きっしー」をいじめている旨を言及してきた。事情を聞く訳ではなく、いじめていることは確定といった口取りだったのをよく覚えている。他生徒(その場にいた)2人の告発であったらしかった。自分も友達も頑なに否定していたが、教師の止まらぬ叱責に耐えかね、自分の無力さを感じ涙が止まらなくなり、どうでもいいやと思い、誰のものでもない濡れ衣を2人で着た。何も知らない告発生徒らへの憎悪、無能教師へのいかりで心の中が苦しかった。そしてその場をおさめ、振り返った後、ノリとはいえ確かに手を出していた事は事実であり、「きっしー」は嫌がっていたかもしれないと思い、謝罪に行った。しかし、「きっしー」はケロッとした顔で「全然いいよ!」「これからも仲良くしよな!」といった感じで何一つ嫌がっておらず、むしろ良質なスキンシップだと感じていた。自分は、何のために数時間罵倒されていたのだと。自分は何が悪かったのだろうかと。友達との関係に水を差したゴミ共への怒りを通り越した呆れを感じていた。
小学校は総括して割と楽しかったのかもしれない。特に小6は学級崩壊しており、登校拒否の女(他女達と問題があったらしいが謎に学級間にまで問題が広がり、最終的に小6での履修範囲が全て終わらなかった)、教師に喧嘩を売る(口がたつため勝ってしまう)生徒がいたりと、一応50超えてる熟練教師であったが威厳もへったくれもなく皆が舐め腐っていた。教師にバレないように、授業中は輪ゴムで撃ち合いの戦争を行っていた。
小学生時代でよくなかったのは、周りの子たちとは明らかに違う家庭環境、カースト上位にいたため下の人間(といっても友達ですらないクラスメイト等)を見下していたことであろうか。直接どうこう言うことはなかったが、明らかに序列のようなものを感じて生きていた。漫画の読みすぎだったのかもしれない。あと、挫折がほぼなかった。自分が明らかにやれない事はやらないし、できそうなことは何でもできた。ここでの挫折が、無謀への挑戦が足りてなかったから、今後苦しくなっていたのかもしれない。
中学時代。なんやかんやでいちばん楽しかった。理由は明白。部活。
特にサッカーが強い中学、というわけではなかったが、自分の代のメンツが仕組まれたくらいに強かった。まず上手い正キーパーがいる時点でズル。
小学校の頃は土日サッカーするなんて無理、とか思っていたが、特に苦でもなかった。夏休み毎日ニ部練土日試合とかいう労働者より労働者してそうな日々も、仲間たちと一緒なら、もちろんくっそ疲れたけど最高に楽しかった。
楽しい理由としては、強かったから。弱い奴らの傷の舐め合いではなく、県内優勝を狙えるほどに強かった。その内のCBをつとめられた自分に胸を張れたし、嬉しかった。先輩後輩らとも、自分は仲のいい人が多く、人間関係も良好だった。胸を張れる目標を持ち、仲間たちと青春の汗を流す、理想的な部活ができていた。
といっても部活だけでなく、学校生活自体も順風満帆といった感じであった。自分の通っていた学校は幼小中高まで一貫(本当のバカは落ちる)なため、仲いい人たちに+αで面白い人達が増えるような感じになっている。例えると、アニメで2期や3期でキャラ増えたりするじゃん、あんな感じ。
男女隔たりなく仲良く、陰陽など存在しない、中学生活を謳歌していた。
中学でのネガイベも主に2つ。
まず、ネガイベにも入らなかったことが1つ。いじめについてである。先述したものは100いじめではないが、今回のは100いじめである。
5人くらいが1人の人間をいじる感じに、しかし明らかに度が過ぎたいじりをしていた。自分はその6人と同じクラスで仲良くしていたが、そういった雰囲気になるとあと一人と共にはけていた。自分はいじめに加担してませんよといった意思表示だ。第一そういった雰囲気が好きではなかった。それでも周りは加害者にしたかったらしい。自分もそこに追加されて怒られた。自分は悪くない(周りで見てた人間と何ら変わらない)ので一切反省しておらず、心にダメージすらなかったが、自分がおう必要のない不幸をおったなと感じてはいたのを覚えてる。というか、他二つがしんどすぎてどうでもいい。
さて、最高に楽しかった中学生活の最低の2つのできごと。1つ目は失恋である。
多くの人間が通るであろう道。ほろ苦い恋の味。自分にとってはそんな苦味すら甘く感じるものだった。
中2のクラス替えで同じクラスになったかほちゃん。初恋の相手である。
今思い出しても普通に可愛い。好きぴ。
なんて冗談は置いといて。
人生初のお付き合いをすべく、よく考えた。
普通の人間の数倍は策をねった。
確実に付き合いたかった。「告らせる」と思うほどには傲慢でなかったので、告ったら100%付き合えるところにまでは持っていこうと思っていた。
・まず仲のいい友達らと好きな人を共有し合う
これは互いに口封じが前提ではあるが確実に外部に漏れる。好きな相手や周りに伝わることで、相手は自分のことを意識し、周りは囃し立てる。この状況に持っていこうと企んだ。
まずこちらは成功。相手には意識させ、周りの女友達もヒューヒューといった雰囲気にさせることに成功。
・LINEでのアプローチ
丁度メールからLINEに変わる時期であった。当時携帯を持っていなかったが、自分の誕生日(9月後半)にipad touchを買ってもらうため、そこから始めようと考えた。
・告白したらOK貰える確証を得る
ぶっちゃけこの時代の告白は、嫌われてなければ通るものである。俗世に憧れを持つ若者にとって、異性交友は経験しておきたいものなのである。ただ、そこまで関わりがある訳でもないのに告白しても成功するか怪しい。というより、100%でしか動きたくなかった。失敗するのが何より嫌だった。
これに関しても、実は成功している。自分から告白したらOKが出ると、かほちゃんと仲のいい女友達2人から言質を取っていた。そこで、「鬼アツ(信頼度メーカー公表値98%)」と感じた自分はメールにて行動を決意。ipad touchを買って1週間後くらいであったろうか。LINEでの親睦を深める前に行動した。
そしてメールを出した。付き合ってくださいと。
そして3日が経った。未だ返信はなし。メールだったため、アドレスを間違えたか?と思い、何気なく男友達にそのことを告げると、信じられない言葉が帰ってきた。
「あいつ〇〇と付き合ってんで」
本当に立ちくらみがした。人生で1番耳を疑った。瞬間、青ざめた。脳が止まった。
失敗した失敗した失敗した失敗した
どうやら自分がipadtouch購入くらいのタイミングであったらしい。自分がもっと早く行動していれば。恥も何もかも捨てて直接告白しておけば。誕生日がもっとはやければ。色んな後悔が頭をよぎった。そこから1ヶ月ほどは本当に灰色の日々だった。無気力で悲しい毎日だったと思う。よく覚えていない。ただ、その頃ボカロに出会って心を休めていたのは覚えてる。アスノヨゾラ哨戒班とか千本桜とかおじゃま虫とか、昔のボカロを聞き漁っていた。それでも恋が諦められなかった。
だから別の人を好きになった。それでもその人を好きになれなかった。それでも好きになろうとした。その人の好きな物から好きになろうとした。SAOだった。結局、その人のことは好きになれず、アニメが好きになった。悲しい失恋物語はこれにて閉幕。
もう1つは、部活である。
サッカー、3年の最後の夏、順調に進んでいたがある回戦で中々の強豪にあたった。拮抗していたため引き分けで終了、PK、そしてサドンデスまでに持ち込まれた。お察しの方もいるかもしれないがその通り、自分がキッカーのタイミングでボールは取られ、敗退が確定した。勿論サッカーはチームスポーツ。PKの1つなんて仕方がないことであり、敗因を挙げればPKになるまでもつれ込んだこと自体である。そんなことは理解できても、当人は理解できない。楽しかった3年間を、自分が終わらせてしまった。まだみんなと戦いたかった。一生の背負う悲しみを背負ってしまった。
後衛の中で自分はPKが得意な方であったし、こちらのキーパーだって上手い人だった。誰しも仕方がないと思っていただろうが、当人は、特にその瞬間に終わってしまったのだから、自分が1番辛かった。どうしようもない理不尽で、俺の心は壊された。
こんな2つの苦しいものがあったが、中学生活は最高だったと言える。それほどまでに楽しかった。部活終了後も、部員メンバーは全員がラブライバーとなり、楽しい日々を過ごしていた。サッカー部が全員ラブライバーとかいう、カーストをぶち壊した歪な中学校だった。
記載していなかったが、学力に関しては中の上〜上の下といった感じだった。流石に部活やアニメ、失恋などで衰えはしたものの、優等生の風格は保っていた。
ちなみに、サッカー部のスタメンは俺以外に彼女がいた。意味がわからない。
高校。まぁゆーて楽しかった。部活はそのままサッカー部に入った。
が、顧問がキツかった。実力主義ではなく、顧問に忠実な人間を起用するといった感じ。そんな顧問が嫌で、2年の半ば辺りには入部者の半数程度になっていた。自分は1年の三学期にやめた。
その後は音ゲーの虫になった。
高校入学時のテストでは30/200人ほどで、かなり優秀、そのままいけば旧帝は余裕くらいだったろうか。しかし、ハードな部活andアニメにハマった影響でえげつない生活に変貌した自分の学力はえげつない右肩下がりをした。授業中全部寝、夕方に起き、部活に行き、帰り、朝までアニメ、それから登校の日々を繰り返し、1年で190/200人まで落ちた。流石に部活を辞めてからは若干一念発起し、2年の間で2桁真ん中程にまでは戻していた。
高校ではネガイベと呼べるようなものはなかったが、いくつか気が落ちたことを挙げていく。
ひとつは、クラス分けである。うちの高校は2年でSクラスとAクラスに分けられる。自分は一応190程にまでは一時期落としたが、クラス分けまでにはSクラスわんちゃん程度にまでは戻していた。しかし、成績しか見ていない学校からすると自分のAクラス行きは固かった。文系だったということもあり、暗殺教室でいうところのendのE組みたいなところに入れられた。まぁ模試は点取れるし、文系Sクラスのメンツが渋かったこともあり、そこまで苦ではなかった。
これは当時というかむしろ今のことだが、自分は賢いやつ、みたいな認識があったことも若干嫌だった。やはり学内の成績で決められていたため、「なんでお前Aクラスなの?」みたいな人が何人かいた。そのうちの一人が自分です。
当時は力を隠して優秀なやつみたいな優越感があったが、受験落ちてからは哀れなだけだった。脳があっても実力を出せてない時点でカスゴミなのである。うーん、つらい。
この頃から、謎に姉と仲が良くなった。大学生になってから姉に何かあったのかは知らないが、やけに絡むことが増えた。食事の時は毎回アニメや実況動画をみていた。会話をすることが増えた。あくまで自分からは何もしておらず、姉になにか変化があったのだと思う。自分としても、やはり仲はいいに越したことはないし、いい変化だと思っている。感謝している。
高校と言えば、受験に触れなければならない。
多分、本気を出せばどうにでもなったと思う。ただ、大学に行く目的が大学に行くことでしかなく、上を目指さずにはいれなかった性分的に、やる気が出きらないand自分の能力以上の大学に行きたいと思ってしまい、上手くは行かなかった。
今まで、実力で何とかならないことがあまりなかったため、何とかなるだろうと思っている節があった。人生を甘く見ていた節があったのは否めない。ただ、多少納得のいく大学に行けてればよかったものの、出願の仕方も常軌を逸しており、第一志望、若干上の私学(しかも1番きつい学部)、滑りしか出さなかった。そして滑りに落ち着き、最悪の大学生活が始まる。
大学。一人暮らしをしてもいい距離であったが、あんな滑りの大学に通う身分で一人暮らしをさせていただくというのは親不孝過ぎると本気で思っていたので自宅から1.5h程かけて通っていた。幸い、違う学部に同じ高校の友達がおり、一緒に登校や帰宅して気を紛らわしていた。
ここまでの文脈からわかるように、同大学に通う生徒を下に見ており、友達を作る気にはならなかった。高校までの友達は沢山いるし、ネットにもいるので必要ないと思っていた。後悔が無い訳では無いが、別にどっちでもよかったと思う。完全にそう言う気持ちを割り切って入学していれば、もっと有意義な大学生活を味わえたかもしれないが、自分の選択に後悔はなかった。
ちなみに、この大学に入学した時点であまり就活にも期待はしていなかった。頑張らなければいい企業に入れないなんてなんてコスパが悪いのだろうと。高々受験が上手くいった人間が優遇されるだけのゴミレースにどうして自分が尽力しなくてはいけないのだろうかと。
4年間は有意義なものではなかった。なんなら2年目からはコロナで引きこもりを余儀なくされており、ゲーム三昧。といっても、みんなで遊んだ時間は有意義だったが。
程々にバイトをして、辞め、友達と遊び、ゲームをし、グダグダとした4年間だった。
大学時代の思い出を描きたいが特に思い浮かばない。
そして就職。院に行く選択肢もあった。そもそも、3年の時点で別大学への編入を考えていた。しかし、コロナで資格のTOEICが受けれないことにより選べる大学が激減、そこに人口が集中し異常な倍率に。さらには自分の行きたい研究室の教授が次年度退職ということを面接時に知るという、もう試験関係に自分は縁がないんだとその時深く思った。
そして編入は無念に終わった。院は行っても良かったが、自分にはやりたいこともなく、ただ2年間親の元でグダグダゲームしながら過ぎると判断したので、一旦社会に出ようと考えた。社会に出ると同時に一人暮らしはしようと思っていたので、名古屋か東京辺りに住もうとは思っていたので、前の職場を選んだ。
就職先をit関係にしたのは、仕事のやりがいを考えたから。接客業を2回経験した自分は向いてない、あの場で働きたくは無いと思った。そこで、どんな仕事なら長続きするかと考えた結果、自分の成長が感じられる職場であれば或いはと考えた。その考え自体は正しかった。しかし、上司との関係、金銭面、職場との距離など、自分の癇に障ることが多かった。社会の気持ち悪さをよく理解した。
そして、退職し、スロで金を溶かし、現在のカスに至るのである。
ここまで自分の不幸話を読んでくれた方ありがとう。
これを書いて改めて思ったが、自分の人生には成功体験が少なすぎる。部活も県内3位まで行ったりはしてるが、絞り出してそれくらいである。成功の敷居が低ければもっともっと出てくるのかもしれないが、過ごした環境が比較的高いがために、自分の凄かったことが全く出てこない。ない人なんていないと思う。ただ、本当に出てこない。凄いの敷居が他の人より高いから。
さて、こんな不幸自慢は置いといて、これからを強く生きていこうと思います。
自分の人生観として、「人の人生における幸せと不幸は同じ」というのがあります。
なので自分は幸せと感じることを減らし、不幸を多く感じるよう心がけてます。今を満足しないように、もっと幸せになるために。
そもそも幸せと不幸が人によって同じなわけないって?
感じ方の問題です。泥水を啜って生きる人の幸せと、我々の幸せは違います。我々の方がどう足掻いても幸せです。しかし、幸せと感じる幸せ量は幸せを感じた瞬間に受け取るものは同じなのです。
自分は、その幸せの量は、一律誰であっても人生で同じ量しか得られない、その精算は不幸と換算して行われると思っています。
だから、超幸せな人間は超不幸になるべきだし、今辛い人間には楽な未来が待っているのです。
そう思いながら、俺は幸せな人間を妬み続ける。